■第46期
 栗明 純生 さん

 今年五十六歳になった。下関を出てもう三十八年の歳月が流れた。あっという間だった。若い頃は下関しか知らず海外に憧れた。最初の十八年間は下関だけ、次の七年間も日本しか知らなかったが、次の二十五年で二十五ヶ国を知ることになった。様変わりだ。

まず、就職して米国留学の機会に恵まれた。念願の海外はまぶしかった。ソフトクリームと分厚いステーキばかり食べ、金髪で肌の真っ白なグラマーな女性に見とれていたが、すぐに日本に帰ることばかり夢見るようになった。正直に言うと米が恋しかったのだ。

帰国後も出張で各地に行った。やがて外資系の証券会社に転じて十年になる。今年はこれまで十ヶ月で五回の海外出張があった。最近の二十五年間で訪れた二十五国の内、ニューヨークとロンドンがその大半だ。世界の中心がどこかこれですぐ分かる。国際都市といってもニューヨークとロンドンは大きく違うのだ、最大の違いはマンハッタンの摩天楼だ。その感覚を、四十歳を超えて突然作り始めた短歌に託して第一歌集に載せた。

拒むごと我を圧する摩天楼いくたびか来て今日の違和感  『銀のハドソン』

 私が短歌なんて作っていると知ったら、西高の古文の先生は何って言うだろうな。何せあの頃は短距離走と受験勉強だけの毎日だったからだ。それでもこの十年間集中してやったら、一昨年私の短歌が、ある大学の入試に出題されたのだ。人は変わるのだ。四十歳からでも十年間頑張ればこれくらいのことはできるのだなと思った。

 百メートル走は二十六歳まで十一秒台、四十六歳まで十二秒台、五十二歳まで十三秒台で走ったが、何とそこでドクター・ストップ。コレステロールがたまって血の流れが悪いらしい。信じられなかったが、本当に冠動脈のくびれをモニターで見せられては信じるほかない。鋼鉄の男なんていないのだと知った。

 私は上級国家公務員試験にも通っていたのに、当時まだ人気のなかった野村證券に入った。証券会社は早晩都市銀行に飲み込まれると言って、慰めてくれる友が多かったが、現実はその逆で、都銀は全部青息吐息の果てに公的資金で食いつないだが、野村は今でも自力でピンピンしている。野村に勤めていたお陰で、私には未だにヘッドハンターがやって来る。ことほど左様に、先のことなんて神ならぬ身に分かるわけは無いのだ。

 今でも一年に二、三度帰省する。故郷の彦島は火が消えたように寂れたが、唐戸は綺麗になって、カモンワーフなんて言っている。門司よりちょっと安っぽくて癪だが、以前よりはいい。

大陸を目指す幾隻出でにけん唐戸の駅をバスに過ぎゆく
『黄のチューリップ』 

また機会があればこれまでのいろいろな経験を的を絞って書いてみたい。