石坪 哲郎
平成15年秋に旭陵同窓会東京支部で会員間のコミュニケーションを図るため「ホームページ」を公開するので総会出席者中の最高齢者(80歳)であった私に「校友録」を書いてほしいとの依頼がありやむを得ずお引受けしました。
先ず若い理事の皆さんが忙しい仕事の合間をさいてしかも手弁当で「ホームページ」を立上げされたことに深甚の敬意を表するものです。
さて、この年まで生きてくると小、中、高校、大学の校友のほかに戦友会、取引関係、趣味その他多くの交遊がありますがその中で一番絆の強いのは中学(旧制)・高校(旧制)、戦友会でしょう。戦中派『散華の世代』である我々は大学在学中軍隊に徴収され、そのまま戦死した学友や戦友が居りこれ等の仲間との絆は一生切れるものではありません。よくもあきずに毎年会を続けているなあと言われるが亡くなった友を悼むとともに友の犠牲のうえに我々が生かされていると言う気持ちがあるためでしょう。
さて、旭陵同窓会(17回)の在京生は8名だが会いに出られるのは2~3名なので、個別の集いは中止して総会で会う様にしています。全国的な会は還暦、古稀など節目の年に下関(川棚)、京都等で行ったが喜寿の会を失したので今秋は傘寿の会を下関で盛大に行うことにしたと幹事から連絡があり出席を楽しみにしています。卒業生160名だが果たして何人が出席出来るであろうか。多感な青春時代を勉学にスポーツに趣味に裸の付き合いをし情熱をぶつけ合った友との交わりは純粋でいつまでたってもすぐその昔に還ることが出来ています。人生の中で最も楽しく、ありがたい存在です。「友の憂(うれ)ひに吾(われ)は泣き、吾が喜びに友は舞う。人生意気に感じては、功名誰か論ぜんや」ということです。
伊藤 昌
卒業して5~6年経った頃、先輩から西高の運動会に同窓会も一役買うことになったから、お前も手伝いに来いとお達しがあって、久し振りに西高の運動会を見ることができましたが、無事終わって後片づけをしていると、すでに暮れかかった運動場の真中で廃材を燃やす火を囲み、生徒達が肩を組んで歌を歌っていました。ああいいなあと眺めていたのですが、オヤッと気がついてみると、その歌は、もう忘れかけていた「西部地区の応援歌」でした。“我等が西部”というところを“我等が西高”と歌っていたのです。
又、その頃だったと思いますが、旧師4・5人をお招きした同期同窓会の席で先生方が
「君達は知らないだろうが、西高の応援歌ができたんだ。」と歌って披露されましたが、同席の2・3から「伊藤が作った西部の応援歌じゃないですか。」ということで先生方は歌の由来はご存知なかったようでした。同席されていた浜名先生から「文法的に一寸オカシイところもあるが、仲々いい歌だ。」とご批評があったことも想い出となっています。
■第79期(平成14年卒)
松村 美希
晩秋の候、皆様にはますます御健勝のこととお喜び申し上げます。本日はホームページの開設を祝し、お祝いの言葉を申し上げさせていただきます。これを記念して(かどうかはわかりませんが)しがない大学生ですが筆をとらせていただくことになりました。
7月26日に行われた旭陵同窓会、私の父の代が幹事ということもあり初めて参加しました。知り合いもほとんどいないし、壁の花になるのが落ちだろうと思っていたのですが、その不安も一瞬で吹き飛ぶほど素晴らしい同窓会でした。いろんな方から声をかけてもらい、又父たちの学生時代を垣間見ることができて楽しい時間をすごすことができました。本当にありがとうございました。
ではここで小話を一つ。私も卒業して2年がたとうとしておりますが、私が現役高校生時代、お年を召した先生方から口々に言われてきた話です(女生徒に対して限定)。「昔の女生徒はいい意味で恐ろしかった。教室の前一列を陣取って、教師が少しでも変なことを言うと無言で教卓を蹴られました。今の西高にはそんな先輩がいたという影も形ものこっていないなぁ。昔の先輩を見習いなさい!!」 先輩方、真相はいかがなものなのでしょうか(笑)。返信をお待ちしております!
振り返ると私の高校生活は部活一色だった気がします(私は吹奏楽部でした)。文武両道が西高のモットーなのでなかなか過酷な3年間でした(笑)。その中での最大の思い出はなんといっても毎年春に行われるスプリングコンサート!!これは吹奏楽部員とOBとが一体となって作り上げるものです。昭和49年から始まり今に至っております。もちろん来年も開催します!部員一同、「みんなに楽しんでもらえる音楽」を目指し精一杯努力しております。その勇姿を皆様にも見て、そして聴いていただきたく感じております。ちなみに来年は3月28日(日)下関市民会館大ホールにて開かれます。ご都合がよろしければ是非足をお運びください。
最後になりましたが、みなさまのご健康とさらなるご活躍を心よりお祈りします。