■ 戎崎 俊一

国際宇宙ステーションに今年日本の実験棟が設置されました。今年度中に後2回のスペースシャトル飛行が日本の実験棟のために予定されています。次回は5月
31日、3回目は来年3月です。スペースシャトルの事故などで遅れに遅れた国際宇宙ステーション計画ですが、ようやく完成に近づきました(http://iss.jaxa.jp/)。

私は、この実験棟に設置する宇宙望遠鏡JEM-EUSOの国際開発チームの責任者をやっております(http://jemeuso.riken.jp/)。この望遠鏡は宇宙からやってくる極
限エネルギー宇宙線を捉えるための望遠鏡です。一つの粒子が持っている運動エネルギーが16ジュール。テニスでのトップスピードのサービスのボールと同程度のエネルギーです。このような粒子は、地球大気中で衝突しますが、とても一回の衝突では止め切れず、何百回と衝突を繰り返してそのたびに粒子を大量に生成してなだれのようなものを起します。この荷電粒子のなだれを宇宙ステーションから観測するのがこの望遠鏡の目的です。このような粒子は巨大ブラックホールから噴出するプラズマのジェット中で作られるのではないかと考えられてきましたが、最も近い活動的なブラックホールの周辺からたくさんの極限エネルギー粒子が来ている兆候があると最近発表され、話題を呼んでいます(詳しくは、ニュートンムック:未解決の天文学、ニュートンプレスをお読みください)。

私たちの望遠鏡はこの兆候をさらにはっきりと明快に捕まえることができると思っています。

さて、宇宙ステーションは肉眼で見ることができることはご存知でしょうか?http://kibo.tksc.jaxa.jp/に発見方法が詳しく書いてあります。ぜひお楽しみください。

■ 澤田豊尚 54期(1977年卒)

東京に来て31年が経ち、下関で過ごした18年をはるかにオーバーしてしまいました。出張では北海道から沖縄まで日本全国に行きましたが、転勤することもなく暮らしています。東京には受験で初めて来て(寝台特急富士で上京したのですが、出発の日、雪がぱらついていたのを覚えています)、あまりの人の多さと有楽町の駅前で食べたつゆの真っ黒な立ち食いうどんにびっくりして、受験に失敗したら東京にはもう来ないと思ったものでした。しかし大学には合格してしまい、東京生活が始まりましたが、うどんは馴染めずに大学時代、帰省して下関駅に降り立つとすぐに駅舎内の立ち食いうどんを食べてから自宅に戻っていました。

上智大学を卒業後、百貨店(伊勢丹)に入社したのですが、4年で止めて、証券会社に転職しました。そのころ(85年)はまったくの異業種への転職だったので珍しがられたものでした。

転職した会社は、野村証券会社系の証券会社でしたが、業界再編でメガバンク系の証券会社になってしまいました。ここ10年の証券会社再編の結果、○○証券の前の会社はどこだったのかなかなか思い出せないよう状況です(私が年をとった結果かも知れません)。前にいた伊勢丹も三越といっしょになるとは入社当時は予想すらしていませんでした(これはだれも同じだと思います)

さて、私は現在、営業支援業務を行っています。入社して10年はアナリスト業務に従事しました。バブルの時代は建設業界の調査を担当していましたが、ウオーターフロントの開発に関連するレポートを書くために、東京湾を船で見学したり、東京の住宅地図をめくりながら、どの会社が都心に遊休地を持っているのかを調べたりしていました。埋め立て案件があれば、どこの土砂を持ってくるのか土代はいくらなのか川崎の港湾局に話を聞きに行ったりもしていました。今から思うとすごい時代だったなと思います。

その後、顧客の株式ポートフォリオ分析アドバイス、プライベートバンキング業務を経て、支援業務を行うようになって8年経ちます。主に証券税制や相続税制に関して営業店からの相談業務を担当しています。当業務を担当するようになって、証券、中でも株式に関する税制に大きな変更(平成15年)があり、また来年には改正も予定されています。来年の改正は営業担当者、顧客に混乱を与えそうで、今後、営業店からの問合せが増えてくることが予想されます。

業務の話はこれぐらいにして、私たち54期は来る7月26日の東京支部総会に向けて準備を進めております。ひとりでも多くの方が当日、会場に足を運んでいただき、楽しいひと時を過ごしていただければと思います。では、会場でお会いいたしましょう。

■ 関口 光子

 こんにちわ。元3年6組 関口(大屋)光子です。

 皆さん、ご存知でしたか?関門トンネルが開通したのは今から50年前、つまり私達と同じ歳月をあのトンネルも過ごしてわけです。子供の頃、下関と門司の境界線を越えるとき少し特別で不思議な気持ちがしたのを今でも覚えています。映画「チルソクの夏」でのトンネルのシーンもとても印象的でした。

 40にして惑わず50にして天命をしる・・・こんな言葉があったような、でも私はまだまだ、そんな境地には至っていません。京都大学薬学部を、友情のノートコピーに支えられつつ、なんとか無事卒業。下関市立中央病院の薬剤部にしばらく勤めましたが結婚退職し、それ以来神奈川県民となりました。1年半ほど主人の仕事でカナダのオンタリオ州、ロンドンで暮らしましたが、幼い子供二人をかかえてのいろいろな失敗や、優しく迎えてくれたカナダの人たちとの交流もいまでは遠い思い出です。

 子供に手がかからなくなってから、薬剤師として再就職。調剤薬局で働く毎日ですが、最近では自分の勉強不足を痛感することばかりです。意外かもしれませんが、患者さんというのは、薬局では本当にいろいろな事を話されます。薬のことだけでなく、栄養、介護、心のケア、どこまで答えていいのか戸惑うこともしばしばです。休みの日の勉強会に出来るだけ出席して、新しい知識を得ようと頑張っていますが、右から入って、半分くらい左から抜けていくようで、ため息ばかり。

 実家の2階からは、満珠 干珠が見えますが、茅ヶ崎の我が家のベランダからは、背伸びすると、太平洋に広がる湘南の海を遠くに見ることができます。下関に帰って、バスに乗りながら眺める関門海峡は、懐かしく、親しみをこめて迎えてくれますが、湘南の海は、ゆったりとして、でもずっと眺めているとあまりの大きさに少し怖くなって、後ずさりしてしまうこともあります。海もいろいろですね。

 写真は我が家の愛犬ミントです。親ばか?ですが本当に可愛らしいワンコです。本屋さんで、『犬とわたしの10の約束』の表紙を見ただけで涙腺がゆるんできて、慌てて隣の『猫なべ』に目を移し、クスッと笑えてセーフでした。

 誕生日がきて50になったら、108個もあるという煩悩のうち、次の三つ以外を、できるだけ捨てて、家族のため、人のために生きたいと思うこの頃です・・できるかな~。

  一つ:秋にあるF4のコンサートチケットが絶対買えますように。

  二つ:いつか、ルーブル美術館でモナリザと対面できますように。

  三つ:7月26日の旭陵同窓会で沢山の人に会えますように。

■ 立石寿雄

先日4月23日に50歳になりました。

私のこれまでの人生を振り返って普通の人と違っているかなと思うのは、4回の転職をしたことです。最初、今はなき東京銀行に入社して、留学させてもらったり、海外駐在も経験して16年間勤めました。三菱銀行との合併がなければ、今頃まだ銀行に残っていたかもしれません。何万人も従業員がいる大手銀行と違って、5000人くらいのこじんまりとした良い銀行でしたが、三菱銀行に吸収されるような形になったのは残念でした。東京銀行と三菱銀行の合併の数年後に、日本長期信用銀行と日本債券信用銀行が倒産しました。東京銀行と三菱銀行の合併がなければ、両行で潰れた長銀と日債銀を吸収していることなったかもしれません。

10年前に、最初の転職でPWCという外資系のコンサルティング会社に移りました。当時日本はバブル崩壊後の不況の真っ最中で、外資系のファンドが日本で不良債権や潰れた銀行や保険会社を買っていた時期でした。PWCの顧客もほとんどが外資系の会社で、当時日本の個人預金残高が1200兆円とか言われていたのに、どうしていわゆるリスクマネーを出すのが外資ばかりなのだろうという、残念な気持ちなりました。そういう思いが、次の転職のフェニックスキャピタルへの転職に繋がりました。フェニックスキャピタルは、PWCと東京三菱銀行のJ/Vとして設立しました。銀行の資金を当時まだ一般的には知られていなかったファンド形式を取ることによって、いわゆるリスクマネーに変えることができるというアイデアです。東京三菱銀行の資金を中心に他の三菱グループ企業の資金も導入してもらって、東京三菱銀行の抱える不良債権を買ったり、問題先への資本投入に使われました。私も当初、代表取締役として参画したのですが、内部での意見の相違によって1年間でフェニックスキャピタルを去ることになりました。折角始めた会社を1年で辞めること自体非常に残念なことですが、もっと辛かったのは、仲間だと思っていた人たちに裏切られたことでした。意見の相違というのは、主として東京三菱銀行から転籍してきたもう一人の代表取締役と私の間だったのですが、株主として参加していたPWCの側も金主の東京三菱銀行を大切にして、私の方は簡単に見捨てる動きをしました。中心となっていたのは、3年間くらい非常に親しくしていたPWC時代の元上司だった人なので、大きなショックを受けました。世の中には、仲間を大切にするよりも経済的な利害で動く人がいるのだと学んだ出来事でした。

フェニックスキャピタルを辞めるタイミングで、当時設立が決まっていた産業再生機構に誘われました。自分が転職以来ずっと関わっていた事業再生という分野の、公的な性質を含んだプロジェクトでした。設立当初は政府がこういうプロジェクトを始めることに疑問を呈する人も多かったのですが、民間人を中心にして活動を行った産業再生機構は結果的に大成功という評価を得ることが出来ました。社長だった斉藤氏は東京証券取引所の社長になりましたし、委員長だった高木新二郎先生は勲章を貰いました。私個人も担当していたミヤノという会社が東証二部への上場を果たすことが出来て、結果として産業再生機構に100億円以上の利益をもたらすことが出来ました。

2005年11月に産業再生機構を退職して、今の会社ネクストキャピタルパートナーズを設立しました。フェニックスキャピタル時代に、仲間だと思っていた人に裏切られた経験から、新会社には信頼できる人だけを加えました。パートナーの本坊氏は長年の友人ですし、鹿児島出身で育ちが良くて、仲間を絶対に裏切らないタイプの人です。部下として採用した人も、以前から良く知っている信用できる人だけです。また、設立時から、元ソニーの会長だった出井伸之氏がアドバイザーとしてサポートをいただいています。出井さんとは産業再生機構時代に知り合ったのですが、ソニーのCEOを退任された時から、新しく事業を立ち上げようとする人を支援しようというのを意図されていたようです。

ネクストキャピタルパートナーズは、いわゆるプライベート・エクイティといわれる投資を目的とする会社です。この業界の成功は、基本的には投資のリターンで測られます。我々はこれまでに4件の投資を行い、更にこの2-3ヶ月でもう2件の投資が決まっています。成功の基準は、最終的な投資リターンがどうなるかですが、取りあえずは順調なスタートを踏み出しました。

転職を繰り返しながらここまでやってこれたのは、周囲の人に恵まれたからだと思います。これからも信頼できる仲間達と楽しく仕事をしていきたいですね。