■第49期(昭和47年卒)
 佐藤 紀子

 ブダペスト暮らしも今年で早くも四半世紀。下関で暮らした年月を越えてしまいました。東京に娘を出すとろくなことがないと親戚に言われたことが本当になってしまったのか、西高から東京へ、東京からハンガリーへと飛んできてしまいました。生来の天邪鬼。他人のやらないことをやってやろうという鉄砲玉のような人生は西高入学から始まったのかもしれません。その成績では無理と言う中3の担任の制止を振り切り、女子高でのキツイ体育の授業がいやで無理やり受けた西高。運良く入試にひっかかり、素晴らしい先生方や生涯の友人に恵まれ、落第もせず楽しい高校生活を謳歌し卒業。(西高での体育の授業は楽しかったです。)その勢いでドナウ河の流れに乗り、今やブダペスト暮らしもベテランの域に入ってしまいました。

 不思議なことに、居場所を下関から遠くに移すにつれ、西高時代の同級生との仲は深まる一方。毎年のように子供達を含めた家族マルゴトのお付き合いが続いています。地方出身でありながら幼稚園(梅光)、高校、大学が同じ同級生が数人というのも珍しいのではないでしょうか。心強い西高の友人達の存在は私のかけがえのない宝物となっています。昨年は帰郷の折、「チルソクの夏」を下関在住の同級生と鑑賞。かつてデートもどき(?)をしたような記憶もある長府の城下町の懐かしい風景やイルカの「なごり雪」には込み上げてくるものがありました。今年は東京でも封切られたとか。皆さん、ご覧になりましたか?豊前田通りや火の山などを背景に展開する淡い初恋の悲恋物語は、涙、涙、涙なくしては見られないものです。 

 思えば、西高での男女の隔てない、自由で大らかな教育と大学入学直後に同級生の知的先進性に驚嘆したカルチャーショックが今の仕事の源になっているようです。たまたま国費留学することになったハンガリーでのドカンと大きな第二のカルチャーショックを経て、男女間、異なる地域出身者間、そして異民族間の異文化コミュニケーションが私のテーマとなりました。ハンガリーの大学で日本語を教える傍ら、通訳その他諸々、女性の世界最古の職業以外は何でも引き受ける自称「千業種婦」兼「我がママ」の生活をしています。今の仕事は、異文化コミュニケーションの研究、教育と実践の場でもあります。書物の世界だけに浸るのではなく、学生や同僚、また交渉相手、通訳相手との丁丁発止のやりとりの毎日は、驚きと新鮮な発見の連続。ミーハーの私にはぴったり。

 ブダペストは街の真中を大河ドナウが縦断し、ブダの低い丘が河岸に迫り、微かに関門海峡を思わせないでもありません。大好きな潮の香りが漂って来ないのが難点といえば難点ですが。アールヌーボー様式ありトルコ様式あり、日本の銭湯も真っ青の特徴ある温泉が点在するブダペスト。「知る人ぞ知る」安くておいしいワインと料理。情に厚くお客好きなハンガリー人の住む国を一度体験すると止められなくなるというのが、ハンガリーファン衆目の一致するところ。日本とブダペストを往復しながらの生活はまだまだ続きそうです。

■第21期(昭和20年卒)
 田鍋 浩義

シベリヤ鉄道完走記

 2004年6月、永年の念願であったシベリヤ鉄道に乗って、ウラジオストックからモスクワまで(9,288km、車中6泊)の完全走破を果たすことができました。
 私は海外の列車に乗ることが趣味で、これまでにいろいろな国の列車に乗りましたが、シベリヤ鉄道にはなかなか乗る機会がありませんでした。

 6月13日、新潟空港からウラジオストックに飛びその晩はホテルに1泊、翌日の夕方、シベリヤ鉄道の始発駅であるウラジオストック駅からモスクワ行の列車「ロシア号」に乗車し、17時30分、静かにすべるように発車しました。ベルもアナウンスもない発車は、われわれ日本人にとっては不慣れで、ちょっと不安ですが、シベリヤ鉄道は途中の停車駅でも定刻になると無言で動き出します。なお、シベリヤ鉄道の時刻表は、すべてモスクワ時刻で表示されており、ウラジオストックとモスクワの時差は7時間ですから、現地時刻17時30分の発車は、時刻表には10時30分発車と表示されております。そのため私は腕時計を2個持参して、左腕の時計は現地時刻、右腕の時計はモスクワ時刻として使用しました。

 シベリヤ鉄道がモスクワからウラジオストックまで全通したのは20世紀の初めだそうで、極東への軍事輸送が主目的でした。そのためかレールの幅も広く(1,524mm)車両も大きく頑丈にできていました。寝台車は2段ベッドが2組入った4人1室で、男女の区別はなく、ベッドにカーテンもありません。各車両の両端にトイレと洗面台があり、トイレは線路に直接落す「たれ流れ方式」なので、駅に停車中は使えません。

 各車両の両端には重いドアがあり、連結器部分は踏み板が太鼓橋形に盛り上がっているので、何両か離れた食堂車まで行くのが一苦労です。幸い各車両には湯沸器が備えてあって、100℃近いお湯が出るので、食堂車行きは省略して、日本から持参したカップラーメンが役に立つこともありました。

 ウラジオストックから列車は北上し、車中1泊してハバロフスクに停車しました。ここはシベリヤ極東部の中心都市で、大きい駅です。シベリヤ鉄道の駅は、大きな駅でもホームに屋根がありません。そのうえホームの高さが低く、列車に乗るときはよじ登るという感じです。大きな駅では、機関車のとり替えや車両への給水などのため20分ぐらい停車します。その間にホームでは、乗客たちが散歩をしたり、地元の小母さんたちが野菜や果物を売っていたりします。

 ハバロフスクからはアムール川を渡った後、西に向って走ります。この辺りはなだらかな起伏のある地形で、白樺の林があり遠くの山々も見えます。ウラジオストックからほぼ中国東北部との国境に沿って走っているので、中国の山も見えているのかも知れません。

 シベリヤ鉄道の線路脇には、1kmごとにモスクワまでの距離を示した標識(キロポスト)が立っております。つぎの1夜があけてキロポストが6,272kmの付近で中国の満州里から来る線路が南側から合流したはずですが、これは残念ながら見損ってしまいました。旅客機が発達していなかった時代に、シベリヤ鉄道を利用してヨーロッパに行った日本人の多くが、当時の朝鮮、満州を経由してやって来た線路です。

 ウラジオストックから3夜あけた6月17日の昼ごろ、右側の窓にバイカル湖が見えてきました。琵琶湖の47倍、水深1,700m、透明度世界一という湖です。列車はしばらく湖岸走った後、現地時刻の15時過ぎに「シベリヤのパリ」と呼ばれるイルクーツクに着きました。私たちはここで途中下車して、市内のホテルに1泊し、ウラジオストック以来の風呂に入って英気を養いました。

 翌18日は朝からバイカル湖見物。「バイカル湖の水で顔や手を洗うと若返る」という伝説に従ってこれを実行しました。そして現地時刻の16時20分、今度はイルクーツク始発のモスクワ行列車「バイカル号」でイルクーツクを出発しました。

 シベリヤは北から順にツンドラ地帯、森林地帯、草原地帯が拡がっており、森林地帯はタイガと呼ばれる針葉樹林ですが、白樺なども混じっています。シベリヤ鉄道はタイガ地帯と草原地帯の境目あたりを走っているので、イルクーツク以西の車窓風景はタイガと草原の組合せが毎日エンエンと続き、初めのうちこそ珍しかったのですが、そのうちに退屈になってしまい、ひたすらキロポストの数字が減っていくのを眺めているという状態でした。

 それでも地図や旅行案内を見ながら、有名な川を渡る時などは気をつけて見ていました。イルクーツクを出て翌日の昼頃にはエニセイ川を渡り、モスクワの少し手前では大きな船が浮んでいるボルガ川の鉄橋を渡りました。またモスクワに着く前日の午後、アジアとヨーロッパの境であるウラル山脈を越えました。山脈とは思えないほどなだらかな地形でしたが、その分水嶺の線路際にアジアとヨーロッパの境界を示す石碑が立っているのが見えました。

 モスクワ到着の数時間前、今まで順調に走っていた列車が突然駅でもない所で止ってしまいました。何のアナウンスもなく、ロシア人の乗客も黙って待っています。日本なら乗客が騒ぎ出すところでしょう。同乗の日本人旅行者の話では、数年前に何の情報もないまま10余時間止っていた経験があるとか。幸い今回は1時間半で動き始めたのでホッとしました。

 こうして6月21日の午後、モスクワのヤロスラヴリ駅に無事に到着しました。ウラジオストック出発以来、車中通算6泊の、退屈を耐え忍びながらもいろいろな思い出を残した世界最長路線の列車旅行を遂に果すことができました。